• 中西忍

「身体の中に『世界』を取り込む」#1 日本酒

Updated: Jul 22, 2021

[Art & Culinary]

清廉な木の香りを持った升に豊潤な日本酒を溢れるぐらい注ぎ入れ、升の角に塩をひとつまみ添える。その風景を眺め、ひと呼吸入れてから、おもむろに前屈みとなり、酒に染みた塩を少し舐めて、升の淵から酒をひとすすり味わう。目を瞑り、口の中で塩のミネラルを感じながら、酒の旨味を融合させる。口全体で味わい終えてから、ゴクリと飲み込む。スッと身体に滲み渡るように吸収され消えていく。そして鼻から深く息を吸い込み、酒の残り香を身体に送り込み、ゆっくりと吐き出す。思わず「うまい」と静かに声を漏らしてしまう。これは酒呑みにとって至福の瞬間である。


酒であれ、飯であれ、肉であれ、「飲む」「食べる」はまさに、「世界」を自らの身体に取り込むことだ。私たちが暮らす地球環境から生まれる食材は、それぞれ「物語」を内包する。それを身体に取り込みエネルギーにする行為、それが「食」である。「物語」を内包した「食」は私たちの身体を媒介して、再び次の世界へと循環する。

「食」とは、私たちにとってどのような存在なのか。それをゆっくりと考えていくCOLUMN「身体の中に『世界』を取り込む」は、私たちが口にする「食」に関して、飲み食いしながら、一つ一つその内包している「世界」をみていこう、という試みだ。


しかし「酒」とは一体何であろうか。世界的に酒の歴史は古く、新石器時代までさかのぼるらしい。紀元前4000年前頃には、古代メソポタミア文明が葡萄からワインを、大麦よりビールが製造され、古代エジプト(紀元前3,000年頃)や古代ギリシア(紀元前1,500年頃)に伝えられた。その後にローマに伝播し、ヨーロッパから地中海一帯に広がった。まさしく人類史とともにある飲料だ。

日本においては、かの中国「三国志」の魏志倭人伝に酒を嗜む倭人が描かれており、既に西暦200年には嗜む風習があったと思われる。古代の酒は、出雲、博多に残る「煉酒(ねりざけ)」のようにペースト状のとろみがあるものであったようである。皇室にも新嘗祭(にいなめさい)で供される「白酒(しろき)」「黒酒(くろき)」に通じる。その後の成り立ちに諸説があるようだが、平安時代以降は、僧坊酒と呼ばれる大寺院で醸造される菩提泉(ぼだいせん)と呼ばれる上質な酒を日本最初の「清酒(せいしゅ)」とする説があり、それを醸造した奈良正暦寺(しょうりゃくじ)に「日本清酒発祥之地」の碑がある。


酒のアルコール成分は「エチルアルコール」というが、それは慣用名で、国際科学命名法では「エタノール」という。もはや飲料として魅力に欠く呼び名だ。承知の通り、酒は醸造という発酵菌による発酵作用によってつくられる。微生物が持つ酵素の働きで糖分やタンパク質を分解し、酵母菌が糖分を分解してアルコールになる。こうした発酵作用を利用するのは酒だけでなく、味噌、醤油なども含めて醸造である。つまり「発酵」とは発酵に適正な湿潤な気候を背景とした日本食に欠かせない。


造り酒屋の軒下に杉玉と呼ばれている酒林(さかばやし)が吊るされているが、その起源は、酒の神である奈良県桜井市の大神神社に各地の蔵人が集まり、神社の御神体である三輪山の杉の葉を酒造りのお守りとして、持ち帰ってあやかった、というのが定説である。

2月頃の新酒の時期に飾られ、新酒の熟成具合を人々に伝える。同じような風習がオーストリア・ウィーンにホイリゲというワイン居酒屋にある。ワインの新酒が出る晩秋に「新酒あります」という目印に、もみの木を束ねたものを吊して、人々の心を沸き立たせる。言葉や文化が異なっても、同じようなことを考えるものだ。


日本酒とワイン。この二つの酒は同じ醸造酒の分類に入る。食中酒としてよく比較されるこの二つの酒は、一体何が違うのであろうか。原材料である米と葡萄のもつ性格で、同じ醸造酒でも作り方に決定的な違いが出てくる。ワインは葡萄自体に単糖類が含まれているので、糖化させることなく、潰して果汁を絞り出し、酵母を加え、「単発酵」させることでアルコール飲料となる。ワインは、酵母がつくる生命活動の結果であることを1879年に発見したのは、かのルイ=パスツールだ。なぜワインができるのか、意外と最近までわからなかったのである。

ワインの味わいは、大きな方向は葡萄品種に依拠し、個性はその土地の気候などの風土で醸し出されるものだが、酵母によってもワインは大きく影響される。本来はその土地で連綿と住み着いた酵母であるが、現代のワインメーカーではワインの性格を決める一つの道具として、培養された酵母を使用している。天然酵母によるべきか否か、パン製造ではよく聞く議論だが、ワイン酵母の場合はより複雑さを増す。

一方、日本酒の場合、その主原料である米は糖分を含まないため、「麹」の酵素で澱粉をブドウ糖に変化させる糖化と、そのブドウ糖を「酵母」の酵素の働きによってアルコールに変化させる発酵を同時に行う。これを「並行複発酵」という。

酒造りで重要視される「酛」とは酒母の事であるが、酒母とは、日本酒を醸造するための培養された優良な酵母のことである。酒造りは、蒸米をもとに麹菌を培養し、その次に蒸米と麹をもとに酵母菌を培養し、そこに仕込み水を入れて発酵させ、日本酒の元となる醪(もろみ)をつくる。このように「一麹、二酛、三造り」によって生み出される日本酒は、世界でも類のない高度で難易度の高い技術を必要とする醸造法なのである。


同じ容器に糖化と発酵を同時に行う方式は、低温でゆっくりと発酵させる。これが寒仕込みの由来である。そもそも日本酒は江戸時代初期まで四季を通してつくられたが、貴重な米を醸造するにあたり、失敗の少ない寒い時期に仕込むことが幕府によって定められて、この形式が根づいたとされる。このじっくり発酵させる過程で、その醸造所独自の環境の中で様々な旨味、香りが混じり合い、独特の風味が出来上がる。これが日本酒の醍醐味となった。

ここから先は、実際に造り酒屋を訪問し、その醸造の秘密を探るしかない。まずはこの辺りで筆を置いて、様々な「物語」を含んだ日本酒の旅に出て、その様々な「世界」を身体の中に取り込んでみよう。